ここ数年、若槻千夏さんをまたテレビなどでよく見かけるようになりました。2006年までは飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍されていた若槻さんは、突如として活動休止を発表。2015年末までの空白の約10年間を経て、芸能界に本格復帰したのです。

しかし“空白”だと感じるのはテレビでの活躍だけしか知らない人かもしれません。ご本人はその間にしっかりと社会経験を積んでいて、復帰して再び第一線に立てたのは、その期間のおかげだと言います。

挨拶ひとつもムダにならない。そんなことに気づかされる、若槻さんのキャリアのターニングポイントのお話です。

多忙を極めた若手時代に比べて、今はゆとりがある

画像: 若槻 千夏(わかつき ちなつ) 1984年埼玉県生まれ。17歳の時に渋谷でスカウトされてデビュー。グラビアからファッションモデル、さらにバラエティ番組を中心にテレビまで活躍の場を広げ、カリスマ的人気に。2009年に自身のブランド「w♥c」を立ち上げる。12年に東京コレクション参加、13年に「w♥c」から退いた後は、株式会社WCJAPANを立ち上げる。15年から芸能界に本格復帰。19年新アパレルブランド「WCJ」をスタート。

若槻 千夏(わかつき ちなつ)
1984年埼玉県生まれ。17歳の時に渋谷でスカウトされてデビュー。グラビアからファッションモデル、さらにバラエティ番組を中心にテレビまで活躍の場を広げ、カリスマ的人気に。2009年に自身のブランド「w♥c」を立ち上げる。12年に東京コレクション参加、13年に「w♥c」から退いた後は、株式会社WCJAPANを立ち上げる。15年から芸能界に本格復帰。19年新アパレルブランド「WCJ」をスタート。

「アパレル事業もやっていますから、その面では忙しいですね。ただタレントの仕事は管理できています。子供もいるので遅い時間帯は働けないですし、昔よりは調整できていますね」

若槻千夏さんは現在36歳。タレント業の傍ら、アパレル事業も展開しています。もちろん忙しい日々を送っていますが、自分の時間も取れているようです。しかし、18年前はコントロールできないほどでした。2003年のブレイク当時のことです。

「当時は1日8本仕事してましたね。そのうち4本くらい記憶がないです。なんかわからないけど写真撮られてるとか、すっごい肌荒れてるのに美容について聞かれてるとか(笑)。当時はスケジュールを事前に共有しているわけじゃなくて、前の日に台本もらうことが普通でした」

レギュラー番組を数多く持ち、“ギャル系”と呼ばれる世の女子のカリスマとして確固たる地位を築き、バラエティに出れば人気芸人と遜色のないトーク力を発揮していたのです。ただ、そんな多忙な日々を過ごしていましたが、疲れた様子はみじんも出しませんでした。

“ハマり続ける”仕事が苦痛に。自分に向いている仕事って?

画像: “ハマり続ける”仕事が苦痛に。自分に向いている仕事って?

「私は疲れやその日の機嫌を表に出すようなタレントが苦手で。(当時の私は)茶髪で化粧濃くて、ホントにギャルだったじゃないですか。悪口言われやすかった反面、『実はそうじゃないんだね』という評価を求めてたんですよ。中身で認めてもらえて、褒められる快感を知ったのが芸能界でした」

自分の立ち位置を正確に把握し、臨機応変にタレントとしてのパフォーマンスを出し続けていました。しかし不器用なだけにストレスを溜め込み、体調は常に悪かったといいます。実は真面目で甘えることが苦手な性格らしいのです。

「この番組に馴染みたい、番組進行役にハマりたい(気に入られたい)という一心でした。でも、元々甘えるのは苦手だし、事務所でもタレント第一号で先輩がいない。それに共演者も芸人さんばかりなので相談相手として対等に向き合えなかったんです」

それでも番組やその進行役にハマり続けようとしていたそう。その結果、疑問が首をもたげます。

「私、何やってるんだろう?って。キッカケは1日8本の仕事を『こなしている』ことに気づいたことです。ちゃんと向き合えないなら、自分に向いている健康的な仕事はないかって。

正直テレビの仕事って、私じゃなくてもいいと感じていたし、旬はいつか過ぎると思ってました。勢いのある状態をあと何年続けられるか、すごく不安だった。

だから長く続けられる仕事はないか。専門職だったり、自分発信でできる仕事はないかを考えて。結果として、アパレルをずっとやりたいと思うようになりました」

「アパレルをやりたい」という感情を押し殺すべきか、選ぶべきか。悩み抜いた結果、退路を断ってアパレルの道を選びました。しかし、そこから順風満帆……というわけにはいきませんでした。

それまで築いたすべてを捨てて海外に渡り、アパレルの世界へ

画像: それまで築いたすべてを捨てて海外に渡り、アパレルの世界へ

「最初は後悔しました。古着の買い付けのために初めて渡米した時には、マンションも何もかも解約して、事務所には1年行くと告げて行きました。でも、向こうについてから自分がまったく無知な状態だったことを痛感して。今までは宿泊先も移動手段も全部用意されていましたよね。人に甘えるのが嫌いな性格なのに、これまでめっちゃ甘えていたじゃんと。そこで人への感謝を知りました」

おめおめと帰国して芸能界に復帰するなんて恥ずかしくて考えられません。もがき続けた結果、2009年、出資者を見つけて会社を立ち上げ、自身のブランド「W♥C(ダブルシー)」をスタートさせます。

「ありがたいことに、『W♥C』で作ったクマタンのブランドがヒットしたんですよ。雑誌が特集組んでくれたり、路面店に毎週のようにバラエティ番組のコーデ企画が来てくれた。そこで芸人さんが『若槻のブランドだよね?』って言ってくれたのがありがたかったですね」

テレビの人気者の露出が減ると「消えた」という評価が下ることが多いですが、若槻さんの場合、そうはなりませんでした。クマタンは台湾などでも人気に火が付きます。テレビで見かけることは徐々に減っていったものの、一方でプライベートが充実。2012年に結婚し、二児に恵まれました。休業から約10年が経ち、2015年に再びホームであるテレビに復帰を果たします。

レジェンドのひと言から、芸能界へ復帰。しかし……

画像: レジェンドのひと言から、芸能界へ復帰。しかし……

「ハローキティのデザイナーの山口裕子さんとお食事をさせていただく機会があって、ブランドについていろいろ相談したんです。そこで、『若槻さんはなんでそんなにしゃべれるのに、テレビ出ないの?』と言ってくれて。実はそれまでもオファーはいただいていたんですが、『ブランド作ってます』とか『クマタン作ってます』といってテレビにしゃしゃり出るのはやだなーと思って、断っていたんです。

でも、山口さんから『ブランドがヒットすれば、勝手に若槻千夏っていう名前とイメージが切り離されるから、小さいことに悩むのはもったいない』と言われて、気持ちが軽くなったんですよね。なに私、クマタンを背負って、人生共にしようとしてるんだと。ここは別々だと思って、お互い働けばいいじゃんって」

大変な納得感を持って復活を決意。懇意にしていた『人生が変わる1分間の深イイ話』(日本テレビ系列)のプロデューサーから「なぜテレビ出てないのか見せた方がいいんじゃないか」という助言もあって、密着ロケを引き受けました。

こうしてリスタートを切った若槻さん。ただテレビ業界における10年の歳月は長いものでした。“ハマろう”というアグレッシブな姿勢は、すでにちょっと古かったそう。

「これはもう病気で(笑)、そういう時代のバラエティに出ちゃったせいなんですよ。でも今、そう思う人も、それを見たい人も少ないんです。空白の10年を経て戻ってきて、そのやり方をもう一度やればいいというと大間違い。間の歴史がない分戸惑いはありましたね。でも口には出さないけど、内心ハマりたいと思ってます(笑)」

今や、番組に合わせに行くより個人の好きなことを評価してもらう時代。しかし、自身のブランドを「タレント・若槻千夏が手掛けるブランドとして評価してもらいたい」という気持ちはみじんもないそうです。その理由は後述しますが、2019年、新たなブランド「WCJ」をスタートします。

アパレルも復活。リスクも取った二足のわらじ

画像: 若槻さんがプロデュースしているクマタンのウェブサイト

若槻さんがプロデュースしているクマタンのウェブサイト

若槻さんは、2013年に「W♥C」の仕事から身を退きました。これは、クマタンが流行りすぎて、クマタンをアイテムに入れないと商品が売れなくなってしまったから。

キャラはキャラ、洋服は洋服でキチンと評価してもらいたい気持ちがあった若槻さんは、クマタンのイメージが世間から抜けるまでアパレルを封印。満を持してアパレルを復活したキッカケは、親としての目線です。

「ママになった時にバッグに目が行って、この世の中にはママになった自分が使いやすいバッグがなぜないのかと考えました。そこで自分なりに使いやすいバッグを作って、しれっとクマタンのサイトで売ったんです。中生地をクマタンにする程度のさりげなさで。そうしたら売れたんです。次に、中生地からクマタンをなくしても売れました。そこでクマタンはなくても行けるなと思い、独立させたんです」

ブランドへの携わり方も変えました。「W♥C」はプロデューサーでしたが、今回の「WCJ」では自身が出資もして、リスクを取ったのです。

時代に合わせて手法を変えるのは、アパレルも同じ

画像: WCJのウェブサイト。若槻さんがモデルとして登場することは全くない

WCJのウェブサイト。若槻さんがモデルとして登場することは全くない

仕事は基本“全部共有している”。スタッフの面接からデザインもするし、マーケティングについても考えています。

「広告を使うようなプロモーションに力は入れていません。時代じゃないかなって思うんですよね。雑誌やタレントに頼る時代は過去のもので、今は個々人が発信する時代。誰かに頼んで仕込んでも、見る側が察して怪しいと見破られる。それだったら、リアルに買う人がどうしたら使いやすいかを考えるマーケティングに回ったほうがいいかなって」

だから、もの作りにはとことんこだわります。洋服が販売されるまで、試作品となるサンプルを作りますが、「WCJ」では若槻さんが納得するまで何度も作り直します。

「『W♥C』時代からの生産スタッフの存在は大きいですね。コストは掛かるけど、自分がこの程度でいいかと思ったものは、そこそこしか売れないとわかってきて。商品とデザイナーがちゃんと向き合っていないと伝わらないんですよね。半年くらい使って改善するみたいなこともしています」

著名人がブランドを手掛ける場合、広告塔である本人の知名度に売り上げが左右されることが少なくありません。しかし、「WCJ」の場合、少し事情が違うといいます。

「私のファンはゼロです(笑)。芸能人が商売をした時、(芸能人自体の)ファンが買ってくれるブランドはだいたい息が短いんですよ。でも私にはファンがいないのに商品は売れている。これはめちゃくちゃプラスです。タレントとしてはヘコむけど、長い目で見られる安心感はありますよね(笑)」

このあたりは売り方にも表れていて、販売サイトで若槻さん自身は顔出しを全くしていません。ただ、ここまでこだわっている若槻さんですが、働き方のスタンスは以前よりもマイルドになったそうです。

肩の力を抜いて取り組めるようになったのは、子供のおかげ

画像: 肩の力を抜いて取り組めるようになったのは、子供のおかげ

「(私は)基本的に働きたくない人なんですよ。来世は渋谷区の地主になりたいです(笑)。でも、スイッチが入っちゃうとがんばろうと思うんですよね」

結果的に全力投球してしまう。真面目で損な性格は変わっていないそう。けれど、経験を経て変わったこともあるのだとか。

「20代は全力でした。でも30代になって、人に甘えることを覚えました。子供ができると自分だけじゃできないことも増えていくじゃないですか。そこで甘えたら、人に頼ることの良さに気づけたんです」

それは妥協ではなく、手を抜く部分と力を入れる部分とのバランスを学べたということ。その気づきには、子供の影響が大きいといいます。

「少し適当になれたのは子供のおかげかもしれないですね。『ママの料理ってマズいじゃん?頑張んなくていいよ』とかストレートに言ってくれると、『肩の力抜こう。でも伸びしろあるからほどほどに頑張ろう』みたいに思える(笑)。力を抜いて見えることもあるなと思いますね」

ターニングポイントは完全休業。そして一番大切なことは…

画像: ターニングポイントは完全休業。そして一番大切なことは…

ライフステージの変化と経験は、大きな気づきをもたらしてくれるようです。特に若槻さんの場合は、仕事を休んだことがターニングポイントになっています。

「大きいのは完全に休んだことですし、戻る前に一度会社をやったことも大きいです。イチタレントだったらわからないことも多かったですし、一度やったからこそ、こんなに人やお金も必要なんだとか、リアルに社会生活の知識を自分で経験できたのが大きいですね」

人生にムダなことなんかなくて、休むことも大事。真面目に愚直にひたすら頑張り続けることが近道だとは限らないということです。

最後に、エピソードをひとつ。大忙しで大人気の若手時代を過ごし、人気絶頂で違う道へ。カムバックして、第一線に舞い戻った若槻さんが一番大切にしていることがあるそうです。

「挨拶と返事です。仕事の現場ではいくら疲れていても、テンションを安定させて、礼儀は徹底してきました。『当時若槻さんが唯一挨拶してくれたんですよ』とキャスティングしてくれたこともありました。そこって仕事力じゃない部分。戻れたのは、挨拶できたからですね(笑)」

人生、なにが功を奏すかわかりません。

「唯一できたのはそれなんですよ。海外行っても、どこでも挨拶。……なんか、いろいろ話したのに結局そんなんでこの話をシメちゃってもいいんですかね?(笑)」

撮影/牛島康介

この記事の著者

画像: ターニングポイント#1 若槻千夏が空白の10年を経て、第一線に戻ることができた理由

吉州 正行(きっしゅう まさゆき)

編集者・ライター。1981年生まれ。リクルートで「R25」編集部に在籍後、独立し広告や記事編集に携わる。家業の寺院副住職ほか(株)reQue代表取締役社長。ウェブメディアや雑誌を中心に、テクノロジーやマネー、タレントインタビューを数多く手掛ける。

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